庄内藩戊辰戦争 新庄の戦い |
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新庄の戦いの舞台地図 |
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鳥越村南はずれに庚申塚があった。高さは2m以上はある感じ、太さも人間の4〜5人分くらいはあるか、ちょっと赤みがかった白っぽい岩に、うっすらと『庚』の字が読める大きい花崗岩のような石である。 |
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14日午前9時過ぎ、庄内軍の陣笠が百五十山の上に見え出した。山を降りて大坪、志津の村に繰り込んできた。西軍は五月幟(のぼり)のような小旗を村社境内の杉林にはためかして敵をおびき寄せ三方から挟撃する作戦なのに、志津の村から庄内兵が顔を出すと二三発発砲してしまった。 |
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仁間福田の戦い |
戊辰戦争で最も激戦となった「壇下の切り合い」は現在の福田院裏、新庄西部幹線農道沿いあたりがその舞台となった。角沢村を焼いた庄内勢はそのまま北上し、現在の升形川沿いに最終防衛線を敷いた新庄勢と激突する。現在の新庄中核工業団地付近から福田までが戦場となり、敵味方入り乱れての激しい白兵戦となった。 |
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新庄城落城 |
庄内軍が新庄城下に入ると、大手門に「開城」の木札が打ちつけられ、一兵もなく、隣室で81歳の家臣尾形与信衛門が正装端座して割腹していた。 |
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参考資料 |