庄内藩戊辰戦争 新庄の戦い

  

 

新庄城落城

 

佐賀・小倉藩兵は後方からの新庄藩兵の銃撃を裏切りと誤解したりし、西軍に新庄藩への疑心が生じて、新庄藩側に知らせず、薩摩藩と長州藩半分は城下を避け金山方面に撤退した。2時間の激戦の後、西軍は敗走を初め、庄内藩軍は城下に一気に攻め込んだ。

新庄城 表御門跡
 


新庄藩主戸沢正実は篭城討死を考えたが、川部伊織の説得を受けて、新庄から落ちることを決断した。横根山で桂太郎に迎えられ、夜通し歩き秋田藩領院内に逃れた。10月1日まで秋田藩領を転々と移動した。

山形の霞城公園の石垣に比べると、石と石の接続面の精度がすばらしくて、隙間がほとんどない
 


庄内軍が新庄城下に入ると、大手門に「開城」の木札が打ちつけられ、一兵もなく、隣室で81歳の家臣尾形与信衛門が正装端座して割腹していた。

これはインカ帝国の首都だったクスコの壁で、剃刀1枚入らないほどピシッとなっているが、これにひけをとらない精度
 

石原藤助・掘平太夫が相談の上、蓑に火をつけ各部屋に放火した。吉之丞は城には入らず、部下に城の消火を命じ、土蔵に封印するなど略奪を禁じ、藩主の居間には土足で入ることを厳禁した。

これが山形の霞城公園の石垣です。かなり雑で、剃刀どころか、包丁でも鉈でも入るところには入ります。

 


長州藩兵などの新政府軍は、守兵を塩根坂などに留め、院内に退いた。庄内藩二番大隊は戦死6人、負傷10人で、新庄藩兵は戦死22人、負傷30人。薩摩・長州・佐賀・小倉各藩兵は死者なし。新庄兵を弾除けにして、危ない時は、すぐ逃げた西軍だった。新庄藩はかわいそうに・・・藩主のご母堂様が薩摩藩主の娘なんだから、もっと忖度されなければいけないはずだが・・・ちなみに米沢藩主上杉茂憲の正室は土佐藩主山内豊資の三女で、そのつてで降伏勧告が土佐藩から来て、まあ早期撤退したようです・・・
 


以下『新庄城』をWikipediaから引用

新庄城は、新庄藩6万石(のちに6万8200石)の本拠として寛永2年(1625年)、戸沢政盛により現在の山形県新庄市堀端町に築城された平城。本丸の南側に出丸のように小さな二の丸が並列状に配置され、その外側を三の丸が囲む形である。本丸及び二の丸、三の丸の堀の水は城の北を流れる差指野川(さすのかわ)から引かれた。三の丸堀(二の堀)の反対側に当たる現在の堀端町は、家老などが住む侍屋敷があった。 最上氏改易後に入封した戸沢政盛は当初真室城(鮭延城)に入城したが、手狭であることと、山城のための不便さから幕府に願い出て、当地に築城した。なお、縄張は同一時期に山形城に入封した鳥居忠政によるものである。
 


現在は、新庄城の建物のほとんどが失われ、本丸址に戸澤神社、護国神社、稲荷神社、天満神社がある。このうち、天満神社は城を創建した戸沢氏の氏神で、藩政時代から現存している唯一の建造物であり、県指定文化財(昭和63年(1987年)8月25日指定)になっている。新庄市老人福祉センターや新庄市保健センター付近では三の丸堀跡も確認できる。本丸跡、二の丸跡を含めた城跡は最上公園として市民に開放されており、新庄市出身の折下吉延による心字池がある。また、最上地方随一の桜の名所として知られ、毎年4月20日前後に見頃を迎え、「カド焼きまつり」の会場となる。夏は天満神社の縁の祭りである新庄まつりが開催される。
以上、引用おわり
 


新庄藩主戸沢家墓所(国指定史跡) 墓所は新庄城跡とは別の場所、北東のほうにあります
 


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